替茶碗(次客用) 仁清写 井戸形茶碗 かがり火の絵 惺斎箱 妙全作
(かえぢゃわん(じきゃくよう) にんせいうつし いどがた ちゃわん かがりびのえ せいさいはこ みょうぜんさく)

一艘の舟から、かがり火が焚かれている絵です。

鵜飼のようですが、鵜も人影もありません。河原の葦原の中に鵜を入れておく鵜籠(うかご)だけ描かれていてそれと分かります。

私の故郷、岐阜の長良川では毎年五月十一日が鵜飼い開きです。

正面の舟の絵の反対側に、源氏香(げんじこう)の「かがり火」の図が描かれていますが、源氏物語五十四帖の第二十七帖「篝火(かがりび)」の物語に鵜飼の場面はありません。

永楽妙全(えいらく みょうぜん:1852〜1927)は十四代永楽得全(えいらく とくぜん:1852〜1909)の妻で、夫亡きあと、その子正全(しょうぜん:1879〜1932)が十五代目を継ぐまで永楽家を守りました

恐らく、腕の良い職人たちにも恵まれていたのでしょう、その間の作品は高く評価されています。

仁清写しとは、野々村仁清(ののむら にんせい:生没年不詳 17世紀中ごろに活躍した陶工)の作風に倣ったもの、或いは仁清の作品を忠実に再現したものなどの呼称であり、模造品ということではありません。

茶碗の内側半分に水面が描かれています。

高台横に「河濱支流(かひんしりゅう)」の印が押してあります。通常永楽作の陶磁器には「永楽」の印を押しますが、上手物(じょうてもの)には特別にこの河濱支流の印が押されます。

この印は、十一代永楽保全(えいらく ほぜん:1795〜1854)が、紀州徳川家の治宝(はるとみ:1771〜1853)公に招かれてその領内で陶磁器製作を始めた際に、その出来上がりの良さを高く評価されて下賜された印であり、河濱支流の意味は、中国の「舜河酬に陶す」という故事に因みます。つまり中国の陶磁器に匹敵するほどのものという、治宝公の賞賛を表しているといったところでしょう。

その後の永楽家の当主は、この印を時折使っています。



箱蓋裏
「永楽造 仁清写 井戸形 茶碗 かゝり火ノ絵 花押(惺斎)
(えいらくぞう にんせいうつし いどがた ちゃわん かがりびのえ)




替茶碗(三客用) 瀬戸黒茶碗 銘 あやめ草 即中斎箱
(かえぢゃわん (さんきゃくよう) せとぐろちゃわん めい あやめぐさ そくちゅうさいはこ)

瀬戸黒茶碗の始まりは、利休時代の天正年間(1573〜1592)といわれ、黒無地で筒型、低い高台が特徴です。

この茶碗は作者不明、いつ作られたものかも分かりません。


箱蓋裏 
「瀬戸黒 茶碗 銘 あやめ草 花押(即中斎)」
(せとぐろ ぢゃわん めい あやめぐさ かおう)

「あやめぐさ」は菖蒲(しょうぶ)の古名です。

白玉を  包みて遣らば あやめぐさ 花橘にあへも貫くがね…大伴家持『万葉集』
(しらたまを つつみてやらば あやめぐさ はなたちばなに あえもぬくがね おおとものやかもち まんようしゅう)


『真珠を包んで送ったなら、あの人は菖蒲や橘の花を束ねて薬玉に通したりするだろう』

端午の節句には菖蒲の葉とヨモギ、あるいは菖蒲の葉と橘の花を束ねて薬玉を作ったと言われています。

同じ大伴家持の万葉集に収められている歌に、

ほととぎす待てど来鳴かずあやめぐさ 玉に貫く日をいまだ遠みか

という歌もあります。「玉に貫く」とは、前述の薬玉にあやめぐさを差し通す端午の節句の風習を意味していますが、「ホトトギス」、「あやめ草」はこの時季の風物詩なのです。

ちなみに、最初の句に出てくる「橘」は、風炉の敷瓦に描かれています。

点前では二碗だけ点前役が点てて、このあやめ草からは水屋で点てて運び出しです。

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